تسجيل الدخول排水管の奥で、女が泣いていた。
細く、長く、息を殺すような声だった。泣き疲れた子どもが、誰にも見つからない場所で喉だけを震わせている。そんな音が、雨の降りしきる窓の外から、古びたワンルームの壁を伝って響いてくる。
雨宮澪はキーボードの上に指を置いたまま、しばらく耳を澄ませていた。
すすり泣きに聞こえるのは、詰まりかけた排水管を雨水が流れる音にすぎない。そう分かっている。二年前にこの部屋へ越してきてから、強い雨の夜には何度も聞いた。壁の薄い賃貸住宅では、配管の軋みも、上階の椅子を引く音も、隣人の咳も、眠れない者には別の何かに聞こえる。
澪は息を吐き、画面へ視線を戻した。
白い文書画面の右下には、午前零時十四分と表示されている。締切を三時間も過ぎていた。
机には、半分ほど残ったコーヒーが冷えている。表面には薄い油膜が張り、蛍光灯の光を鈍く映していた。隣には取材用の小型録音機と、角の欠けた黒いスマートフォン。録音機の赤いランプは消えているのに、ときおり内部で何かが擦れるような音がした。
書きかけの記事の題材は、都内の外れに建つ木造アパート〈常世荘〉だった。
築五十六年。二階建て。六世帯。
過去十五年のあいだに、同じ二〇三号室から三人の住人が失踪している。最初は独身の会社員、次は離婚したばかりの女性、最後は地方から上京した女子学生。いずれも玄関には鍵がかかり、財布も携帯電話も衣類も残されていた。争った跡はない。窓も内側から施錠されていた。
管理会社は偶然だと答え、所轄署は事件性を認めていない。
けれど、近隣の住民は口を揃えて言った。
二〇三号室の壁から、夜ごと女の声がする、と。
澪は何度か文章を読み返した。取材で聞いた話はひどく曖昧で、証拠と呼べるものはなかった。音声データも、壁紙の染みを撮った写真も、恐怖を求める者が好き勝手に意味を与えられる程度のものだ。
それでも記事は、何かを断定する言葉を求めていた。
指先が冷えていた。暖房はつけていない。八月の夜は蒸し暑く、窓ガラスには湿気がまとわりついている。なのに、右手の人差し指だけが、氷水に浸したように感覚を失っていた。
澪はその指で、最後の一文を打った。
――真相は現在も明らかになっていない。
句点を入力した瞬間、机の上でスマートフォンが震えた。
短く一度。
少し間を置いて、もう一度。
静かな部屋では、それだけで誰かが扉を叩いたように大きく聞こえた。
澪は反射的に手を伸ばしたが、画面へ触れる寸前で止まった。
表示されている時刻は、午後十一時三十八分だった。
「……え」
声が、乾いた唇のあいだから漏れた。
パソコンの時計は午前零時十四分を示している。壁に掛けた安物の時計も、長針が三を過ぎていた。秒針は規則正しく進んでいる。スマートフォンだけが、三十六分前に取り残されていた。
通信の不具合だろうか。画面を消してつけ直せば戻る。そう思いながらも、澪の指は動かなかった。
通知欄に表示された差出人の名を、目が認めることを拒んでいた。
椎名澄花。
胸の奥で、心臓が一度だけ強く打った。
次の鼓動が来るまでに、異様に長い間があった。
澪は椅子の背へ身を押しつけた。古い合皮が小さく軋む。視線を逸らそうとしても、名前は画面の中央に貼りついたまま離れない。
椎名澄花。
高校二年の秋まで、毎日のように呼んでいた名。
八年前、七刻女学校跡で消えた少女。
警察は山林まで捜索した。災害救助犬も入り、地下の防空壕も調べられた。崩れた教室の床からは大量の血痕が見つかった。血液型も遺伝子情報も澄花のものと一致した。それでも、遺体はなかった。制服も、靴も、鞄も、彼女が首から下げていた小さな鍵も、何ひとつ見つからなかった。
七刻女学校へ入ったのは七人だった。
澪。
神代朔。
椎名澄花。
早乙女美月。
黒瀬悠斗。
白石奈々香。
相馬透。
夜が明けたとき、校門の外にいたのは六人だけだった。
澪は事件のあと、澄花の連絡先を削除した。
薄情だからではない。
耐えられなかったのだ。
電話帳を開くたび、名前が目に入った。誕生日の通知が出た。古い会話履歴には、くだらない冗談も、部活動の集合時間も、澄花が最後に送ってきた「先に中で待ってる」という短い文も残っていた。
その一行を見るたび、あの夜の匂いが蘇った。
濡れた木材。
黴。
鉄錆。
そして、床一面に広がっていた生温かい血の匂い。
削除した番号が、端末の中で再び名前を持つはずがない。
澪は震える親指で通知へ触れた。
件名は、一言だけだった。
返してください
喉が勝手に鳴った。
本文には挨拶も、名乗りもない。七つの住所が、縦に並んでいた。
最初の住所は、七刻女学校跡。
二つ目は、常世荘。
そこまで見た瞬間、澪の背筋を冷たいものが走った。
つい先ほどまで記事を書いていた、三人の住人が消えたアパート。その所在地が、番地まで正確に記されている。
三つ目は、戻り橋北詰の公衆電話。
四つ目は、山間に残る久世人形屋敷。
五つ目は、紅椿屋敷。
六つ目は住所ではなく、地下市場の入口を示す簡単な地図。
七つ目は、地図上から消された山中の神社だった。
どれも、八年前の心霊研究会で候補に挙がった場所だった。
ただし、実際に七人で訪れた記憶はない。七刻女学校へ入った夜、澄花は黒い布袋を抱えていた。どこで手に入れたのかと聞いても笑うだけで、中身を見せなかった。その袋と、七つの場所とが、澪の中で細い糸のようにつながった。
住所の下に、短い文章が続いていた。
七つの場所から盗んだものを、七夜のうちに返してください。
来なかった人から死にます。 最初は七刻女学校。 明日の午前零時までに来てください。 この記録を、部外者に読ませてはいけません。最後の一文だけ、文字の濃さが違って見えた。
澪は画面へ顔を近づけた。黒い文字の縁が滲み、濡れた墨のようにわずかに広がっている。
目の疲れだ。
瞬きをすると、文字は元に戻った。
添付ファイルが一つある。
小さな画像を開いた途端、八年前の空気が部屋へ流れ込んだ。
七刻女学校の正門前で撮った集合写真だった。
錆びた門扉。蔦に覆われた校名板。夕暮れの青い光。七人は、それぞれ懐中電灯や撮影機材を手にして並んでいる。
左端で肩をすくめているのが相馬透。背が高く、痩せた身体を大きめのパーカーに包んでいる。
その隣で白石奈々香が笑っていた。薄桃色のカーディガン。長い髪。片手で美月の腕を掴んでいる。
早乙女美月は、不機嫌そうに顔を背けている。心霊研究会の部長だった黒瀬悠斗は、胸の前で古びたビデオカメラを持ち、何かを言いかけた口の形で写っていた。
神代朔は澪の隣に立っている。
肩が触れそうで触れていない距離。
当時から、朔はカメラを向けられるとほとんど笑わなかった。写真の中でも、静かな目でこちらを見ている。澪だけが緊張をごまかすように笑い、両手で懐中電灯を握りしめていた。
そして中央に、澄花がいた。
いるはずだった。
身体は写っている。制服の白い襟も、細い手首も、胸元まで垂れた髪も見える。
だが、顔だけが黒く塗り潰されていた。
塗料を乱暴に擦りつけたような黒ではない。光がそこだけ届かず、深い穴が開いているようだった。輪郭の内側には目も鼻も口もなく、ただ濃い闇が詰まっている。
「こんなの……」
澪は画像を拡大した。
指で広げるたび、澄花の顔の黒が粗い粒へ崩れていく。画像加工の跡を探そうとした。境界の不自然さ、色の違い、圧縮の乱れ。仕事柄、簡単な加工なら見分けられる。
だが、黒い部分の中心には、画素ではないものがあった。
髪のような細い線。
何本も重なり、渦を巻いている。
その奥に、白い点が二つ浮かんだ。
目だと思った瞬間、画像が閉じた。
澪は息を呑んでスマートフォンを握り直した。指先が汗で滑る。
ホーム画面へ戻っている。
通知は消えていない。
差出人も、件名も、そのままだった。
朔に連絡しなければならない。
そう考えたとき、胸の奥にわずかな抵抗が生まれた。
八年前の事件後、六人はほとんど会わなくなった。
悠斗は卒業前に転校した。美月は大学進学を機に海外へ行ったと聞いた。奈々香は一度だけ澪へ会いに来たが、喫茶店の席で何も話せず、泣きながら帰った。透は事情聴取のあと心を病み、家族ごと遠方へ移った。
朔だけは、時折連絡を寄越した。
誕生日に短い文を送り、澪が熱を出せば薬を届け、仕事で心霊現場へ行くと知れば「一人では入るな」と電話をしてきた。
優しさというより、習慣に近い距離だった。
近づきすぎず、離れすぎない。
あの夜のことを話さないという一点だけで、二人はつながっていた。
澪は連絡先を開き、朔の名を押した。
呼び出しボタンへ触れようとした瞬間、画面が勝手にメールへ戻った。
集合写真が、もう一度表示されている。
今度は、澄花の顔があった。
八年前のままの澄花が、中央で笑っている。
切り揃えた前髪。少し吊り上がった目。左の頬に浮かぶ小さなくぼみ。澪がよく知っていた、何か悪戯を思いついたときの笑顔だった。
安堵より先に、恐怖がきた。
その笑顔が、記憶と少し違っていた。
口角が上がりすぎている。
唇の端が、頬の中央近くまで裂けるように伸びていた。
澪は画面を落としかけた。
写真の中で、黒く塗り潰されている顔が、別にあった。
自分だった。
身体も服も変わらない。澄花の右隣で懐中電灯を抱えている。だが、首から上だけが闇に沈み、何も見えない。
「やめて……」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
スマートフォンが震えた。
新しいメール。
一人目、既読。
その五文字が表示された直後、部屋の明かりが消えた。
蛍光灯だけではない。パソコンの画面も、空気清浄機の表示も、窓の外に見えていた向かいの建物の明かりも、一斉に失われた。
暗闇が落ちてきた。
音まで塞がれたようだった。
雨は降っているはずなのに、窓を打つ音がしない。排水管のすすり泣きも消えている。冷蔵庫の低い唸りも、壁時計の秒針も聞こえない。
澪自身の呼吸だけが、近すぎる場所で乱れていた。
吸うたびに喉が鳴る。吐いた息が唇に触れ、すぐ冷える。
手の中のスマートフォンだけが光っていた。
青白い光が、指の節と爪の先を照らしている。爪のあいだに黒いものが挟まって見えた。瞬きをすると消えた。
停電。
そう思おうとした。
けれど、画面右上の電波表示は消え、時刻はまだ午後十一時三十八分のまま動いていない。
澪は椅子から立ち上がった。
膝が机の裏へ当たり、冷めたコーヒーが倒れた。液体が机を伝い、床へ落ちる。ぽたり、ぽたりと音がした。その間隔が、誰かの歩調に似ていた。
スマートフォンの懐中電灯をつけようと指を滑らせる。
画面が暗転した。
黒い硝子に、自分の顔が映る。
頬は青ざめ、瞳だけが不自然に大きい。肩までの髪が汗で首へ貼りついている。唇が震えていた。
その背後に、誰かが立っていた。
白い襟。
濡れた紺色の制服。
顔は髪に隠れて見えない。
澪の肩越しに、細い女の指が伸びている。
振り返ってはいけない。
身体のどこかが、そう訴えていた。
けれど、首はゆっくりと後ろへ向いた。
暗い部屋。
倒れた椅子。
雨で濡れた窓。
誰もいない。
澪はしばらく動けなかった。
胸が痛むほど脈打っている。耳の奥で血の音がする。右手には、ひび割れたスマートフォンがある。画面は再び点灯し、未送信の通話画面を映していた。
神代朔。
名前の下で、呼び出しボタンが淡く光っている。
澪は震える指で押した。
耳へ当てる。
呼び出し音は鳴らなかった。
代わりに、遠くで水の滴る音がした。
一滴。
少し間を置いて、もう一滴。
その向こうから、浅い呼吸が聞こえる。
「朔……?」
返事はない。
「朔、聞こえる? 私、澪。変なメールが来て……澄花の番号から……」
言葉にした途端、口の中に鉄の味が広がった。
電話の向こうで、誰かが息を吸った。
それから、少女の声がした。
『遅いよ』
澪は電話を耳から離した。
通話画面には、発信中の表示も、通話時間もなかった。朔の名だけが消え、代わりに番号が表示されている。
八年前に削除したはずの、澄花の番号だった。
玄関の方で、鍵の回る音がした。
金属が擦れ、ゆっくりと錠が外れる。
澪は息を止めた。
玄関の鍵は内側から掛けた。チェーンも掛けてある。誰かが外から開けられるはずがない。
かちゃり、ともう一度鳴った。
次に、濡れた靴底が床を踏んだ。
ぺたり。
間を置いて。
ぺたり。
狭い廊下を、誰かが歩いてくる。
水を吸った制服の裾が、壁を撫でるような衣擦れを立てた。
澪は机の端を掴んだ。指が震え、爪が木目を引っ掻く。逃げる場所はない。窓は六階。玄関へ向かえば、足音と鉢合わせる。
ぺたり。
ぺたり。
足音は洗面所の前を通り、台所を越えた。
部屋との境にある扉は開いている。
暗闇の向こうで、何かが止まった。
生温かい空気に、古い校舎の匂いが混じった。
濡れた木材。
黴。
鉄錆。
そして、八年前の床に広がっていた血の匂い。
スマートフォンが、澪の手の中で震えた。
新しい通知が届いた。
二人目、既読。
その直後。
すぐ背後で、濡れた髪から水滴の落ちる音がした。
管理通路は、人間が歩くために作られたというより、建物の臓腑へ無理に押し込まれた裂け目のようだった。 肩幅ほどしかないコンクリートの壁。頭上には錆びた水道管と、後から増設された新しい電線が何本も絡み合っている。古い鉄から落ちる赤錆と、樹脂被膜のまだ新しい匂いが混ざり、湿った空気が喉へまとわりついた。 五人は一列になって進んだ。 先頭は朔。その後ろに澪、美月、奈々香、最後を悠斗が歩く。 誰も背後を空けたくなかった。 だからといって、この狭さでは振り返ることも難しい。 壁に固定された赤い表示灯が、一つ先へ進むたび順番に点灯していく。 かち。 かち。 まるで五人の位置を誰かが確認しながら、道を開いているようだった。「止まって」 朔が片手を上げた。 澪は背中へぶつかりかけ、足を止める。 右側の壁に、細い横穴が開いていた。 高さは目の位置ほど。横幅十センチほどしかない。換気口にしては不自然で、縁だけ埃が薄い。 朔が懐中電灯を消し、穴へ目を近づけた。「何が見える?」 澪が囁く。「放送室」 朔が横へずれた。 澪も覗く。 壁の向こうに、透が死んだ放送室が見えた。 壊された扉。 床の血痕。 切断された黒い磁気テープ。 オープンリール式録音機。 見える角度は、透が倒れていた位置を真正面から捉えている。 もし誰かがここに立っていたなら。 透が首へ絡んだテープを外そうともがく姿を、最後まで見ていられた。 澪は目を離した。 首筋が冷える。「これ、覗き穴……?」 奈々香の声が細い。「そう見える」 美月が答えた。 数メートル進むと、また穴があった。 今度は音楽室。 グランドピアノを横から見下ろす位置。 ソレノイドの仕掛けを調べていた五人の姿も、ここからなら死角なく見えていたはずだ。 次は女子トイレ。 四番目の個室を隠す壁の裏側。 さらに舞踊室。 一方通行の鏡の向こう。 奈々香が足を止めた。「ずっと……見てたってこと?」 誰も返事をしなかった。 鏡の中で自分だけが遅れたとき。 耳から血が流れたとき。 四番目の個室へ閉じ込められたとき。 誰かが壁の向こうから、その恐怖を見ていた。 それも、怪異が起きた結果を偶然確認したのではない。 最初から見るために穴を開けている。 澪は背後の奈々香が呼吸を乱す
『殺されたからです』 死んだ相馬透の声が、三階女子トイレの天井から降ってきた。 奈々香が息を呑む。 美月は反射的に廊下の方角を見た。悠斗は何かを言おうとして口を開いたが、言葉にならない。 澪だけは、その場から動けなかった。 声があまりにも透だった。 低く、少し掠れている。語尾を必要以上に伸ばさず、問いへ短く答える話し方。八年前から変わらない。 けれど透は死んでいる。 二年七組へ安置したまま。 澪自身、その身体を担架に乗せた。『俺は聞いてしまった』 校内放送が続く。 五人の呼吸が止まった。『八年前に消された音を』 ざらり、と雑音が混じる。 古いスピーカーの膜が震えている。『犯人は、ずっと一緒にいた』「止めろよ」 悠斗が天井を睨んだ。「誰だ。何がしたい!」 返事はない。 代わりに、七刻女学校の始業ベルが一音だけ鳴った。 かあん。 余韻が消える。「放送室」 朔が言った。「発信元を確認する」「透のところへ戻るの?」 奈々香の声が震えた。「嫌ならここで待つか?」「一人では絶対に残らない」「なら五人で行く」 朔は骨伝導装置を入れた証拠袋を機材鞄へしまった。 動きには淀みがない。 澪はその横顔を見た。 頼りたい。 だが、奈々香の髪から落ちた装置を触る朔の指を見てから、胸の奥にある小さな疑いが消えなかった。 音響。 映像。 遠隔操作。 録音。 偽の映像。 朔の知識が役に立つたび、その知識でこれらを作ることもできるのだと気づいてしまう。 五人は管理通路を戻った。 細いコンクリートの壁に貼られた自分たちの写真が、懐中電灯の光を受けて一枚ずつ浮かぶ。 美月の病院。 奈々香の配信場所。 悠斗の会社。 澪の取材先。 そして、室内から撮影された朔。 奈々香は朔の写真の前を通るとき、顔を上げなかった。 朔も何も言わない。 校内放送では、透の声が途切れ途切れに続いていた。『ずっと……』 雑音。『近くに……』 また雑音。『見ていた』「細切れに聞かせるな」 悠斗が吐き捨てる。「意味を持たせたいだけだ」「そうかもしれない」 朔が答えた。「そうじゃなければ?」 美月の問いに、朔は歩みを止めなかった。「確認するしかない」 二年七組の前へ着く。 まず、朔が設置した小型カメラを
黒い水は、奈々香の膝を越えていた。「早く! もう腰まで来る!」 四番目の個室の内側から、奈々香が扉を叩く。 狭い木板が衝撃を受け、鈍い音を繰り返した。 ばたん。 ばたん。 その合間にも、水の流れる音が大きくなる。 ごぼ、ごぼ、と水洗タンクの奥で空気が泡立ち、黒い液体が床へ溢れている。 澪は扉へ両手をついた。「奈々香、もう少しだけ待って!」「無理! 冷たい! 足が動かない!」 奈々香の声は泣き崩れていた。 先ほどまでは足首ほどだったはずの水位が、数十秒で腰近くまで上がっている。 澪は床を見た。 個室の外は乾いている。 扉の下には数センチの隙間があるのに、黒い水は一滴も漏れてこない。「おかしい」 美月も同じ場所を見ていた。「これだけ溜まれば、下から流れ出るはず」 古い女子トイレには排水口がある。 しかも、増設された四番目の個室の床にも、小さな排水穴が見えていた。 完全に塞がれていたとしても、腰まで水を溜めるには相当な量が必要になる。 この狭い空間に、その水がどこから供給されているのか。「朔!」 悠斗が叫ぶ。「錠はまだか!」「外から外す」 朔は電磁錠を諦め、個室の側壁へ懐中電灯を当てていた。 増設された木板の継ぎ目。 外側から古く見せるため、表面には汚し塗装が施されている。 しかし、板そのものは新しい。 朔は工具の先端を継ぎ目へ差し込んだ。「悠斗、ここを押さえろ」 二人で板をこじる。 最初はびくともしない。 悠斗が肩を押しつけ、朔が工具をさらに深く差し込む。 みし。 木材が裂ける。 内側で奈々香が悲鳴を上げた。「何か、いる!」 澪の背中が凍る。「何が?」「鏡に……後ろに……澄花が!」「鏡を見ないで!」 美月が叫ぶ。「正面の扉だけ見て! 私たちの声を聞いて!」「無理! 耳元で喋ってる!」「何て?」 奈々香の返事は、水を蹴る音に掻き消された。 ばしゃん。 ばしゃん。「腰まで来た! お願い、開けて!」 八年前。 理科準備室の扉を叩く声が、澪の耳の奥で重なった。『澪ちゃん、開けて!』 掌の古傷が疼く。 あのときは逃げた。 煙。 火災警報。 男の声。『もう助からない』 そして、自分は扉を離れた。「今度は絶対に置いていかない」 澪は呟いた。「何?」 美
三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……
「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗
少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。 暗闇は一瞬だった。 それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。 こつ。 硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。 続いて蛍光灯が白く明滅した。 十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。「……何、あれ」 奈々香が美月の袖を握る。 誰も答えなかった。 澪は階段を見上げた。 一階から踊り場まで、十二段。 八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。 その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。 十三段目。 しかも、その先に廊下が続いている。 三階へ上がる階段ではない。 踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。 薄暗い窓。 左右へ並ぶ教室の扉。 天井から垂れる蛍光灯。 突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。「四階……?」 美月が呟く。「ない」 悠斗が即座に否定した。 声がひどく乾いている。「この校舎は三階建てだ」「図面にも?」 澪が訊く。「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」 朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。「全員、その場から動くな」 液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。 今度は、カメラにも存在していた。 朔は角度を変えた。 正面から。 壁際から。 床近くから。 どの角度でも、十三段目はある。 突然、照明が消えた。「動かないで!」 美月の声。 数秒後、明かりが戻る。 十三段目は消えていた。 その先の四階もない。 十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。 奈々香が息を呑む。「今、なかった」「ああ」 朔はカメラを確認する。「映像からも消えてる」 また照明が瞬いた。 一度暗くなる。 白い光が戻る。 十三段目。 四階。 存在する。 照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。 澪のスマートフォンが震えた。 続いて四人の端末も同時に鳴る。 七つの学校章。 赤く塗られているのは三つ。 七人目の出席。 校歌。 姿見。 その下へ新しい文章が表示された。 十三段目に